将門公ゆかりの地を訪ねて(6)〜将門神社(千葉県柏市岩井)〜

柏市岩井地区にも将門神社がある。

「岩井」というと平将門の本拠地であり、終焉の地でもあったところも「岩井」(茨城県坂東市岩井)であり、いわくありげだ。ちなみに坂東市の岩井には國王神社があり、御神体は将門の三女、如蔵尼が33回忌に彫った平将門木像である。

将門神社は岩井集落の中心にあり、隣には真言宗豊山派の寺院・龍光院が寄り添うように建っている。

青年館の軒下が参道になっているのが面白い。

手賀台地周辺には将門公が住んだと伝えられる館(別荘?)や出城跡が点在しており、この将門神社は三女の如蔵尼が父の敗死後、その霊を祀ったのが始まりとされる。

石灯籠には「寛政12年」(1800)の文字が刻まれているが、現在の社殿は安政6年(1859)に再建されたものだという。

小ぶりではあるが見事な彫刻が施された素晴らしい社殿だ。

正面は龍。

左側面は「鶴亀高砂」。

右側面は流れ矢で右目を射貫かれて戦死したという将門公に倣い右目が未完成の「隻眼の姫君」。

背面には乗馬の達人だった将門公を偲んだ「放れ馬」。福島県の相馬野馬追は、将門公を祖とする相馬氏がその軍事訓練を受け継いだものだ。

 

このような美しい社殿をぐるりと一周、手で触れられる(もちろんそんな罰当たりなことはしないが)至近距離で観ることができる。ありがたいことではあるが、あまりにも無防備だし、風雨による損傷も心配だ。中尊寺の金色堂までとは言わないが、覆い堂のようなものは作れないものか。

 

昭和六十?年に(岩井)区民によって建てられた案内板は「将門大明神 祭神 平新皇将門」の他は残念ながらほとんど読めない。


夜桜で一杯

外は花散らしの雨が無情に降っているが、我が家の旭山桜は今まさに見頃を迎えている。

年度が替わって二週間目、長い一週間になりそうだが、桜を愛でながら一杯やってとっとと寝よう。


将門公ゆかりの地を訪ねて(5)〜手賀沼〜

我孫子日秀から柏市手賀へ手賀沼を渡ってみる。湖沼というより川である。それもそのはずで、このあたりは「手賀川」というのが正式名称で、両岸は干拓によって作られた田畑だ。

手賀沼・印旛沼の干拓というと教科書で習った田沼意次の名を思い浮かべるが、江戸時代に干拓されたのはここからさらに東のJR新木駅の南、浅間堤から東側だ。それも氾濫によって何度も頓挫したようである。昭和19年には対岸の手賀に渡ろうとした教職員17名が突風で船が転覆して亡くなっている。戦後、電気ポンプによる干拓事業が再開されて完成したのは昭和40年代前半というから、つい最近まで、日秀の台地上から将門公が朝日を拝んだのとさほど変わらない風景が広がっていたのである。

 

中世までの手賀沼は香取海(かとりのうみ)の入り江のひとつで、手下海または手下浦と呼ばれていた。香取海は学術的には古鬼怒湾というそうだが、鬼怒川や小貝川が流れ込み、今の霞ヶ浦、北浦、牛久沼、印旛沼、佐原・潮来にまたがる水郷地域、そして手賀沼がひとつになった広大な内海(鹿島灘に湾口を開く汽水湖)だった。ちなみに利根川は徳川幕府による水路の付け替え(利根川東遷)まで東京湾に注いでいた。

 

新元号「令和」の典拠として脚光を浴びている「万葉集」には、

 

 大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物念はざらむ(柿本人麻呂)

 

と詠われている。

 

日秀のある我孫子台地と対岸の手賀台地は、将門の本拠地とされる茨城県坂東市方面から見ると、香取海に突き出した半島のようになっていた。いずれの台地にも平将門公ら桓武平氏の流れを継ぐ千葉氏、相馬氏の古城、出城跡が点在しており、軍事上重要な地域であったことがわかる。

 

この写真は千葉県立手賀沼自然ふれあい緑道から手賀大橋方面を臨む手賀沼の景色。

手賀沼は我孫子・柏両市民いこいの場だ。


旭山桜

近所のソメイヨシノは満開をやや過ぎてハラハラ始まったが、我が家の旭山桜は五分咲きだ。

2年前に近所の電気屋さんでもらった桜だ。去年あたりはまだ接ぎ木の接ぎめが不安定だったが、3年目の今年はすっかり落ち着いた。一応小盆栽っぽくしてみたが、「桜切るバ」という例の格言が頭から離れずに枝が伸び放題。さてどうしたらよいものか・・・。どなたか手入れの仕方をご存じなら教えて頂きたい。


将門公ゆかりの地を訪ねて(4)〜将門の井戸(千葉県我孫子市日秀)〜

将門の井戸は市道を将門神社と反対方向にゆるやかな坂道を20メートル程下ったところにある。住所は我孫子市日秀字石井戸。

巨木の根元に直径2〜3メートル程の窪地があって、のぞき込んだが水は見えなかった。

20年近く前にも一度訪れたことがある。その時は草が生い茂り、落ち葉がふき溜まって何が何だかよくわからなかったが、今回はきれいに清掃されていた。地元の人たちが管理しているのだろう。

この井戸は将門公が軍用に開いたものだと伝わっている。地形的に見て、我孫子台地に染みこんだ雨水が手賀沼の岸辺のこのあたりでこんこんと湧き出していたのだろう。


将門公ゆかりの地を訪ねて(3)〜将門神社(千葉県我孫子市日秀)〜

「かまくら道」を過ぎるとまもなく、「将門神社入口」「将門の井戸入口」という2つの案内板がある。

まずは将門神社をお参りしよう。

 

将門神社は旧日秀村の村社で、かつてはこのあたりに将門公が出城を築いたと伝えられている。

将門公が戦死した時、その霊が日秀の郷に現れ、「吾は平親王将門の魂である、今よりこの地に止まり村中の老幼を守るであろう」と言って消え失せたという。郷土史誌「湖北村誌」によれば、この地はかつて将門公が(一説には戦死直後にその霊が)朝日を拝した所だといい、将門公没後この地に一宇を建立しその霊を迎えたのがその起源といわれている。

昔は木造の社があったというが、長らく石の祠があるだけだった。高校生の頃に自転車でここを訪れて、鬱蒼とした森の中にぽつんと佇む祠に異様な霊気を感じ、逃げるようにその場を去った記憶がある。

一昨年の平成29年に日秀地区の人々によって拝殿が作られて、将門公にふさわしい立派な佇まいとなった。

拝殿上部に飾られているのは平氏の家紋のひとつである揚羽蝶紋。将門公の紋とされる九曜紋ではなく、あえて揚羽蝶紋にしたのは日秀の人々のこだわりだろうか。キュウリを輪切りにすると九曜紋にも似ているが、日秀地区の人々が忌み嫌う桔梗の紋にも似ている。

 

神社の傍らは断崖になっていて、眼下には手賀沼を干拓した田園風景が広がっている。


将門公ゆかりの地を訪ねて(2)〜日秀観音から将門神社へ(千葉県我孫子市日秀)〜

観音寺から市道を手賀沼方面へ向かう。

JR成田線の日秀踏切をわたると丁字路がある。

右の折れると「日秀西遺跡」がある。旧石器時代から、縄文、弥生、古墳、奈良、平安時代にかけての複合遺跡で、律令時代には相馬郡の郡衙(役所)があったと考えられている。

県立高校建設にあたり発掘調査が行われ、現在は県立湖北特別支援学校の敷地内に覆土保存されている。常陸国府(現茨城県石岡市)を終点とする古代東海道の於賦(おふ)駅もこの近辺にあったと推定されていて、下総国と常陸国の境に位置するこのあたりは交通・政治の要衝だったのではないだろうか。

 

丁字路に戻り10数メートルも進むと、うっかりすると通り過ぎてしまうような十字路がある。右手は狭い舗装道路、左手は未舗装の農道になっている。

ここが地元では「かまくら道」と言われている道路だ。

以前、この先の我孫子市布佐に「頼朝お手植えの松」という松があった。私が学生の頃はその何代目かの松があったが今はそれも枯れてしまったようである。

律令制の崩壊とともに古代東海道はその役割を終え、今となってはそのルートも定かではないが、もしかするとこのかまくら道は古代東海道の一部だったのかもしれない。

かつて平将門が馬を走らせ、その200年後に源頼朝が通ったかもしれない道を、さらに900年後の今こうして歩いていると思うと歴史ロマンを感じずにはいられない。


将門公ゆかりの地を訪ねて(1)〜日秀観音(千葉県我孫子市日秀)〜

茨城県南部から千葉県北西部にかけては平将門(903?〜940年)にまつわる地が数多く点在する。実家近くの我孫子市日秀もそのひとつだ。

 

日秀と書いて「ひびり」と読む。

 

将門公は幼少期をこの地で過ごしたという。手賀沼から将門公が馬に乗り、台地に駆け上って朝日を拝したところから「日出(ひいで)村」と称し、のちに「日秀村」となったと伝えられている。他に将門公の遺臣、日出弾正がこの地に隠棲したからとの説もあるようだ。

 

曹洞宗観音寺は、地元では「日秀観音」として親しまれている。寺の公式HPによると、観音寺としての創立は寛文2年(1662)とされるが、古くは将門神社(ここから500メートルほど南にある。後日紹介する予定)の境内に将門公の守本尊である観世音菩薩を安置する仏堂が営まれたのが始まりとされる。

観音様が祀られている観音堂。もとはかやぶき屋根だったようだが、今はトタンが巻かれている。お堂の中には極彩色の見事な彫り物が見える。

 

観音堂から見て左手前、国道356号と市道のT字路脇にお地蔵様が立っている。

通称「首曲がり地蔵(または首振り地蔵)」といって首をちょこんと西の方向に傾けている。前を走る国道356号線は別名、成田街道で東に進むと成田市だ。

成田といえば、成田山新勝寺。成田山は、新皇を名乗り朝廷と敵対した平将門を討伐するために朱雀天皇の命により都から不動明王が運ばれて護摩祈祷が行われた所だ。祈祷最後の21日目の2月14日に将門公は討ち取られたという。新勝寺の「勝」は将門に勝利したという意味で、生々しい名称なのだ。

 

お地蔵様はその成田山新勝寺に顔を背けているわけだ。日秀の人たちは今も成田山を参拝しない。これは日秀在住のもと同僚から聞いた話なので間違いない。彼女の話をさらに紹介すると、日秀の人たちは桔梗を忌み嫌う。愛妾だった桔梗の前の裏切りによって将門公が討たれたという伝説によるものだ。

 

将門公には七人の影武者がいて区別がつかなかったが、「本物の将門はこめかみが動く」と桔梗の前が敵に密告した(一説にはスパイ)。NHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」(1976年放送)では、露口茂さん演じる俵藤太(藤原秀郷)の放った矢が、加藤剛さん演じる将門のこめかみに当たり壮絶な最期を遂げた。

 

日秀地区では桔梗を植えない。キュウリも輪切りにしない。輪切りの断面が桔梗紋に似ているからだという(将門公の紋である九曜紋に似ており、畏れ多いからという説もある)。さらには山梨の銘菓、信玄餅も食べない。なぜだかおわかりだろうか。信玄餅を製造しているのは「桔梗屋」だからなのだ。これは彼女独自の拘りなのかもしれないが、ここに至って日秀が平将門公ゆかりの地であると確信するのである。

 

この記事は日秀・観音寺さんの公式HPを参考にさせていただきました。


令和

「令和」か・・・「昭和」と響きが似ているせいか、「平成」のときのような意外感はなかった。

 

4月1日だけに「な〜んちゃってね。本当は・・・」なんてやったら、「さすが管さん!」と拍手喝采するのだが。

 

結婚を控えた知り合いがいて、今日の新元号発表を見てから婚姻届を出すと言っていたが、二人は「令和」に切り替わるまで待つだろうか。それとも「平成」のうちに届けを出すことにしただろうか。

 

「安」の入った年号にするのではないかという噂も流れたが、「安政」はもう十分続いたではないか。さらに続けたいような動きもあるが、もう結構だ。


花見散歩

三月最終日は穏やかに晴れた。昼に食べたラーメンとケーキのカロリーを消費するべく、夫婦で散歩に出た。

 

我が家の周辺でも桜がほぼ満開。

わざわざごったがえす上野公園まで行く必要はない。

 

ここはニッカウヰスキー東京工場。

7分咲きといったところ。

 

近所の三角公園。

1時間ほど歩いて帰着。全身全霊がビールを欲したがぐっと我慢。我慢によるストレスも相当体に悪い気もするが、あと2時間もしたら湯上がりのぐびぐびを楽しんでやるぞ。



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