将門公ゆかりの地を訪ねて(11)〜将門塚(千葉県柏市大井)〜

前に「きっかけ」の項で触れた郷土史本「下総国札」(岡田秀樹著)に気になる記述があった。

 

「(福満寺から)将門山への途中に、将門を祠ってあるという小さな森がある。この森に入ると必ず将門のたたりがあって、手足がしびれて動かなくなるという。禁足地だったらしい。中をのぞくと祠が二つ並んでいる。(福満寺の)住職が止めるのも聞かず入ってみた。祠の主は時代不明の板碑だった。いつの間にか、出土した板碑を将門の供養碑と考えて大切にしてきたのだろう。無断で森に入った罰があるかと思ったが、幸い手も足もその後無事に動いている。」

 

「王城の地」の中程にこんもりとした森がある。

上記の本が出版されたのは1983年で当時の状況はわからないが、今は周りは畑と空き地で森に通じる道は見当たらない。

公道なのか私道なのか、砂利道が一本あって森に少しだけ近づくことができた。

目をこらすと祠らしきものが見える。それも二つ。これこそかの禁足地の森、「将門塚」に違いない。先の本の著者はさすがは郷土史家だけあって大胆にも中に入ったが、たとえ森に通じる道があったとしても私には足を踏み入れる勇気はなかっただろう。霊気漂う森である。

心の中で遠目にも覗き込んだ非礼を詫びて王城の地を後にした。


太川蛭子 ローカル鉄道寄り道旅

くそ〜! 半分見損なった。残業めぇ〜!!

土曜スペシャルから昇格して、なんと毎週木曜のレギュラー番組になってしまった。

 

うれしいことはうれしいのだけど、毎週となるといつかは飽きられて放送打ち切り・・・なんてことも??

テレ東にとっても大事な二人だけにちょっと心配。月一回くらいでいいのでは・・・。


蕾シリーズ(1)

モッコウバラの蕾。

ガクが割れてきてもう数日で開きそうです。

 

早咲きのオールドローズ、フランシス・デュブリュイ。

GW中には開花するでしょう。


将門公ゆかりの地を訪ねて(10)〜王城の地(千葉県柏市大井)〜

将門山から広い市道に戻って「嘉平農園」の少し先を右折すると・・・

そこは「相馬の都 平将門王城通り」だ。

 

「王城通り」を100メートル程歩くと民家の先に空き地があり、手作り感120%の案内板が立っていた。

王城の地
将門記の王城の地とは此の地なり

将門記に云く王城を下総の国の亭南に建つべしと。この地より眼下手賀沼を望めば大井の津が一望でき北に筑波山を拝し西に富士山を奉拝し関八州を手中にできる。この地こそ王城建設にふさわしい所であります。かつて奈良時代には相馬郡に六郷が置かれました。手賀沼南岸には大井郷と古溝(こみぞ)郷配され、手賀沼北岸には布佐郷、倉麻(そうま)郷、意部(おぶ)郷、余部(あまるべ)郷が置かれました。また同時代には東海道が京の大津から下総国府を通り大井より布施に渡り戸頭に出、常陸の国の石岡まで整備されました。このように都市機能が整備なされた所に将門は相馬の都を建てることに決定しました。

 

空き地の左脇には民家が一軒あるがその先はこんもりした森を囲むように畑が広がっている。そしてその向こうは手賀沼だ。前回の「将門山」で述べたように王城の地としては申し分ない地のように思われる。

 

ここで「王城の地とは此の地なり」の根拠となっている『将門記』(作者不明、成立年代は天慶の乱の100年程後か)の問題の箇所を見てみよう。以下は『坂東市本将門記』(坂東市立資料館発行)の村上春樹氏による訓読文を引用させていただいた。えっ?あの村上春樹さん?!と思われた方もおられるのではないだろうか。何を隠そう私もその一人だったのだが、同姓同名の別人で、将門研究第一人者の国文学者・・・失礼しました。もし同一人物だったら『将門の森』だったかも。

 

(前略)王城を建つべき議を成す。其記云く、王城を下総国の亭南に建つべし。兼て檥橋(ウキハシ)を以て号して京の山崎と為、相馬の郡大井の津を以て京の大津と為(セ)む。

 

相馬郡大井は現在の柏市大井でよいのだろうが、そうなると文の流れから言って「亭南」は相馬郡ではないことになるのでは?と思ったら、『板東市本将門記』の解説にもそのように書かれていた。「将門の王城建設は後世の演劇の世界で拡大されているが、現実にはそれを建設する時間的な余裕はない。その場所として相馬郡があてられ、「相馬内裏」などとよばれるが、「相馬郡大井津号為京大津」としていることは、その地が相馬郡内ではなかったことを暗示する。場所としては、以前からの将門の本拠地石井営所があったとされる板東市岩井が適当。」

 

上の解説にあるように、新皇就任と国守任命、王城建設の議決がなされたのが天慶2年(939)12月19日で、翌天慶3年2月14日には新皇将門は討たれてしまったのだから時間的に王城は建てられていない。したがって発掘調査をしても何も出てこないわけだが、手賀沼湖畔にそびえ立つ板東の覇者の王城を想像するのも楽しいではないか。


将門公ゆかりの地を訪ねて(9)〜将門山(千葉県柏市大井)〜

手賀沼の西南、柏市大井地区に将門山と呼ばれる高台がある。将門公が城を築いたという言い伝えがある地だ。

手賀大橋方面から手賀沼沿いの道を進み、左手に柏リハビリテーション病院のすぐ先に見えるのが将門山で、その先のHホテルの先を左折(うなぎ屋の幟が目印)、坂を上りきるかきらないかという所の細道を鋭角に左折する。かく言う私はこの細道がそれとわからず、3往復した挙げ句、「嘉平農園」の脇に路駐して探し回りようやく発見した。すれ違い出来ない細道の先に丁字路があり、左に行くと車を回せる駐車場がある。

昔はこの高台の真下まで湖水が迫っていたことだろう。沼沿いの道から見ると沼に突き出た岬のようになっていて、守るに易く、またこのあたりを通っていたといわれる古代東海道を見下ろす軍事上重要な地であったと想像できる。

対岸は我孫子の市街地だ。

実はこの高台は「船戸古墳群」としての方が有名だ。6世紀後半から7世紀前半にかけて造られた前方後円墳7基、円墳33基の計40基から成る古墳群だ。副葬品に馬具や飾り太刀の一部が発見されていることから被葬者は手賀沼南岸の有力者と考えられるという。

将門山から左手にもうひとつこんもりした森が見える。実はそこにも興味深いものがあるのだ。


ベロニカ・オックスフォードブルー

ベロニカ・オックスフォードブルーが見頃を迎えています。

数年前にポット苗を植えてほったらかしにしておいたら、花壇のボーダーを彩るいい株になりました。


福正宗 ひゃくまんカップ

しまくら千代子! 晩酌の酒を切らしてしまった!! 

と風呂上がりだというのに冷や汗をかいたら、救世主現る!!!

 

昨年12月に金沢に行った折に買い求めたワンカップがあったではないか!!!!

福正宗 ひゃくまんカップ(辛口)である。バックが黒いのが辛口、白いのが甘口だ。

12月に訪れたあのときにはやなぎ夫婦はひゃくまんさんブームに沸いた。

ブームが一段落した今、改めてひゃくまんさんのありがたみをしみじみと味わっている。


アンズ

とりあえずアンズの実付きはいいようだ。

開花時期に雨が少ないのが幸いした。

 

最終的にはどれくらい収穫できるだろうか。楽しみだ。


将門公ゆかりの地を訪ねて(8)〜きっかけ〜

さて、このあたりで何故今この時期に平将門?と思っておられる皆様に少々説明をさせて頂きます。

 

きっかけ1(遠い昔のそもそも話)
高校2年の時、千葉県我孫子市に引っ越した。我孫子は人口13万の東京のベッドタウンで、大正から昭和初期にかけては志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦らが移り住み、「北の鎌倉」とも称された文化薫る都市だが、時代を一気に遡って律令時代には下総国相馬郡の一部。平将門は幼少時代、相馬小次郎と呼ばれていた。幼稚園2園、小学校4校・・・転校には慣れているとは言え、転入試験を受けての高校転校には少々消耗したが、折しもNHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」が放送中、我孫子は将門伝説が残る地で地理好き歴史好きの私にはちょっとした喜びではあった。

「風と雲と虹と」は大河ドラマのお手本のような番組で、山本直純さん作曲のあのオープニングテーマには大いに鼓舞されたし、去年亡くなった加藤剛さん演じる将門ははつらつとしてかっこよかった。NHKは局員全員でこの大作を鑑賞し、余計な迷いや忖度を反省して原点に立ち戻ってほしい。世の中には変えてはいけないものもたくさんあるのだ。

 

きっかけ2
今年の正月に実家に泊まった折、88になる母が私と同じ年齢の頃に地域の勉強会で使ったという郷土史本「下総国札 」をたまたま本棚に見つけた。

暇つぶしに読んでいたら将門にまつわる記述が所々にあって、改めて将門伝説が残る地を訪れてみたいと思った。

 

きっかけ3
今年の2月14日、大好きな番組、「英雄たちの選択」(NHK BSプレミアム)で、平将門が取り上げられた。その日はうっかりチョコレートなんかをブログネタにしてしまったが、2月14日は将門公の命日なのだ。

前々から将門公ゆかりの地はHPかブログにまとめてみたいと思っていたのだが、この番組を見て一気に火が付いた。もちろん、「弱きを助け強きを挫く」板東武者、平将門公を敬愛しているのは大前提だ。

 

そんなわけで言い訳をさせて頂きました。「将門公ゆかりの地を訪ねて」はまだまだ続きます。乞うご期待。


将門公ゆかりの地を訪ねて(7)〜龍光院地蔵堂〜

龍光院の創立は長享2年(1488)とされるが、父の戦死後にこの地に移り住んだ将門公三女の如蔵尼が地蔵尊を崇まい、一宇を建てたのが始まりとされる。隣接する将門神社は龍光院が管理している。

 

山門を入って右手にある現在の地蔵堂は安政3年(1856)に建てられたものだ。

 

傍らに昭和53年8月に建てられた案内板がある。将門神社のものとは違い、一字を除き読むことができたので転記する。

将門の第三女如蔵尼は母親君の御前と共に大変美人であったので数多く結婚を求められたが独身で暮していた。父将門が戦いに敗れてから此所岩井の地に庵を結んでひっそりと暮していた。ところが或る日病気になるとたちまち地獄に堕ちたが地蔵菩薩に助けられて蘇生し地獄から帰されて、それから如蔵尼と改名し地蔵尊に深く帰依して齢八十余りのとき端座して入滅したと伝えられる。如蔵尼とは地蔵様のように情深い尼僧と云う意味である。父将門の霊を祠に祭り、将門大明神とし現在の将門神社の始めであり同時に地蔵堂を建立し尊像を安置し信心三昧に暮せり。天和二年岩井村灰燼となる大火に際しても御本尊は自ら火炎を□れて村民の安穏をお守りになられた。

 

ここ岩井地区にも、成田山詣でをしないとか桔梗を植えないといった、対岸の我孫子市日秀と同様の風習、しきたりがあるようだ。



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