福正宗 ひゃくまんカップ

しまくら千代子! 晩酌の酒を切らしてしまった!! 

と風呂上がりだというのに冷や汗をかいたら、救世主現る!!!

 

昨年12月に金沢に行った折に買い求めたワンカップがあったではないか!!!!

福正宗 ひゃくまんカップ(辛口)である。バックが黒いのが辛口、白いのが甘口だ。

12月に訪れたあのときにはやなぎ夫婦はひゃくまんさんブームに沸いた。

ブームが一段落した今、改めてひゃくまんさんのありがたみをしみじみと味わっている。


アンズ

とりあえずアンズの実付きはいいようだ。

開花時期に雨が少ないのが幸いした。

 

最終的にはどれくらい収穫できるだろうか。楽しみだ。


将門公ゆかりの地を訪ねて(8)〜きっかけ〜

さて、このあたりで何故今この時期に平将門?と思っておられる皆様に少々説明をさせて頂きます。

 

きっかけ1(遠い昔のそもそも話)
高校2年の時、千葉県我孫子市に引っ越した。我孫子は人口13万の東京のベッドタウンで、大正から昭和初期にかけては志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦らが移り住み、「北の鎌倉」とも称された文化薫る都市だが、時代を一気に遡って律令時代には下総国相馬郡の一部。平将門は幼少時代、相馬小次郎と呼ばれていた。幼稚園2園、小学校4校・・・転校には慣れているとは言え、転入試験を受けての高校転校には少々消耗したが、折しもNHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」が放送中、我孫子は将門伝説が残る地で地理好き歴史好きの私にはちょっとした喜びではあった。

「風と雲と虹と」は大河ドラマのお手本のような番組で、山本直純さん作曲のあのオープニングテーマには大いに鼓舞されたし、去年亡くなった加藤剛さん演じる将門ははつらつとしてかっこよかった。NHKは局員全員でこの大作を鑑賞し、余計な迷いや忖度を反省して原点に立ち戻ってほしい。世の中には変えてはいけないものもたくさんあるのだ。

 

きっかけ2
今年の正月に実家に泊まった折、88になる母が私と同じ年齢の頃に地域の勉強会で使ったという郷土史本「下総国札 」をたまたま本棚に見つけた。

暇つぶしに読んでいたら将門にまつわる記述が所々にあって、改めて将門伝説が残る地を訪れてみたいと思った。

 

きっかけ3
今年の2月14日、大好きな番組、「英雄たちの選択」(NHK BSプレミアム)で、平将門が取り上げられた。その日はうっかりチョコレートなんかをブログネタにしてしまったが、2月14日は将門公の命日なのだ。

前々から将門公ゆかりの地はHPかブログにまとめてみたいと思っていたのだが、この番組を見て一気に火が付いた。もちろん、「弱きを助け強きを挫く」板東武者、平将門公を敬愛しているのは大前提だ。

 

そんなわけで言い訳をさせて頂きました。「将門公ゆかりの地を訪ねて」はまだまだ続きます。乞うご期待。


将門公ゆかりの地を訪ねて(7)〜龍光院地蔵堂〜

龍光院の創立は長享2年(1488)とされるが、父の戦死後にこの地に移り住んだ将門公三女の如蔵尼が地蔵尊を崇まい、一宇を建てたのが始まりとされる。隣接する将門神社は龍光院が管理している。

 

山門を入って右手にある現在の地蔵堂は安政3年(1856)に建てられたものだ。

 

傍らに昭和53年8月に建てられた案内板がある。将門神社のものとは違い、一字を除き読むことができたので転記する。

将門の第三女如蔵尼は母親君の御前と共に大変美人であったので数多く結婚を求められたが独身で暮していた。父将門が戦いに敗れてから此所岩井の地に庵を結んでひっそりと暮していた。ところが或る日病気になるとたちまち地獄に堕ちたが地蔵菩薩に助けられて蘇生し地獄から帰されて、それから如蔵尼と改名し地蔵尊に深く帰依して齢八十余りのとき端座して入滅したと伝えられる。如蔵尼とは地蔵様のように情深い尼僧と云う意味である。父将門の霊を祠に祭り、将門大明神とし現在の将門神社の始めであり同時に地蔵堂を建立し尊像を安置し信心三昧に暮せり。天和二年岩井村灰燼となる大火に際しても御本尊は自ら火炎を□れて村民の安穏をお守りになられた。

 

ここ岩井地区にも、成田山詣でをしないとか桔梗を植えないといった、対岸の我孫子市日秀と同様の風習、しきたりがあるようだ。


将門公ゆかりの地を訪ねて(6)〜将門神社(千葉県柏市岩井)〜

柏市岩井地区にも将門神社がある。

「岩井」というと平将門の本拠地であり、終焉の地でもあったところも「岩井」(茨城県坂東市岩井)であり、いわくありげだ。ちなみに坂東市の岩井には國王神社があり、御神体は将門の三女、如蔵尼が33回忌に彫った平将門木像である。

将門神社は岩井集落の中心にあり、隣には真言宗豊山派の寺院・龍光院が寄り添うように建っている。

青年館の軒下が参道になっているのが面白い。

手賀台地周辺には将門公が住んだと伝えられる館(別荘?)や出城跡が点在しており、この将門神社は三女の如蔵尼が父の敗死後、その霊を祀ったのが始まりとされる。

石灯籠には「寛政12年」(1800)の文字が刻まれているが、現在の社殿は安政6年(1859)に再建されたものだという。

小ぶりではあるが見事な彫刻が施された素晴らしい社殿だ。

正面は龍。

左側面は「鶴亀高砂」。

右側面は流れ矢で右目を射貫かれて戦死したという将門公に倣い右目が未完成の「隻眼の姫君」。

背面には乗馬の達人だった将門公を偲んだ「放れ馬」。福島県の相馬野馬追は、将門公を祖とする相馬氏がその軍事訓練を受け継いだものだ。

 

このような美しい社殿をぐるりと一周、手で触れられる(もちろんそんな罰当たりなことはしないが)至近距離で観ることができる。ありがたいことではあるが、あまりにも無防備だし、風雨による損傷も心配だ。中尊寺の金色堂までとは言わないが、覆い堂のようなものは作れないものか。

 

昭和六十?年に(岩井)区民によって建てられた案内板は「将門大明神 祭神 平新皇将門」の他は残念ながらほとんど読めない。


夜桜で一杯

外は花散らしの雨が無情に降っているが、我が家の旭山桜は今まさに見頃を迎えている。

年度が替わって二週間目、長い一週間になりそうだが、桜を愛でながら一杯やってとっとと寝よう。


将門公ゆかりの地を訪ねて(5)〜手賀沼〜

我孫子日秀から柏市手賀へ手賀沼を渡ってみる。湖沼というより川である。それもそのはずで、このあたりは「手賀川」というのが正式名称で、両岸は干拓によって作られた田畑だ。

手賀沼・印旛沼の干拓というと教科書で習った田沼意次の名を思い浮かべるが、江戸時代に干拓されたのはここからさらに東のJR新木駅の南、浅間堤から東側だ。それも氾濫によって何度も頓挫したようである。昭和19年には対岸の手賀に渡ろうとした教職員17名が突風で船が転覆して亡くなっている。戦後、電気ポンプによる干拓事業が再開されて完成したのは昭和40年代前半というから、つい最近まで、日秀の台地上から将門公が朝日を拝んだのとさほど変わらない風景が広がっていたのである。

 

中世までの手賀沼は香取海(かとりのうみ)の入り江のひとつで、手下海または手下浦と呼ばれていた。香取海は学術的には古鬼怒湾というそうだが、鬼怒川や小貝川が流れ込み、今の霞ヶ浦、北浦、牛久沼、印旛沼、佐原・潮来にまたがる水郷地域、そして手賀沼がひとつになった広大な内海(鹿島灘に湾口を開く汽水湖)だった。ちなみに利根川は徳川幕府による水路の付け替え(利根川東遷)まで東京湾に注いでいた。

 

新元号「令和」の典拠として脚光を浴びている「万葉集」には、

 

 大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物念はざらむ(柿本人麻呂)

 

と詠われている。

 

日秀のある我孫子台地と対岸の手賀台地は、将門の本拠地とされる茨城県坂東市方面から見ると、香取海に突き出した半島のようになっていた。いずれの台地にも平将門公ら桓武平氏の流れを継ぐ千葉氏、相馬氏の古城、出城跡が点在しており、軍事上重要な地域であったことがわかる。

 

この写真は千葉県立手賀沼自然ふれあい緑道から手賀大橋方面を臨む手賀沼の景色。

手賀沼は我孫子・柏両市民いこいの場だ。


旭山桜

近所のソメイヨシノは満開をやや過ぎてハラハラ始まったが、我が家の旭山桜は五分咲きだ。

2年前に近所の電気屋さんでもらった桜だ。去年あたりはまだ接ぎ木の接ぎめが不安定だったが、3年目の今年はすっかり落ち着いた。一応小盆栽っぽくしてみたが、「桜切るバ」という例の格言が頭から離れずに枝が伸び放題。さてどうしたらよいものか・・・。どなたか手入れの仕方をご存じなら教えて頂きたい。


将門公ゆかりの地を訪ねて(4)〜将門の井戸(千葉県我孫子市日秀)〜

将門の井戸は市道を将門神社と反対方向にゆるやかな坂道を20メートル程下ったところにある。住所は我孫子市日秀字石井戸。

巨木の根元に直径2〜3メートル程の窪地があって、のぞき込んだが水は見えなかった。

20年近く前にも一度訪れたことがある。その時は草が生い茂り、落ち葉がふき溜まって何が何だかよくわからなかったが、今回はきれいに清掃されていた。地元の人たちが管理しているのだろう。

この井戸は将門公が軍用に開いたものだと伝わっている。地形的に見て、我孫子台地に染みこんだ雨水が手賀沼の岸辺のこのあたりでこんこんと湧き出していたのだろう。


将門公ゆかりの地を訪ねて(3)〜将門神社(千葉県我孫子市日秀)〜

「かまくら道」を過ぎるとまもなく、「将門神社入口」「将門の井戸入口」という2つの案内板がある。

まずは将門神社をお参りしよう。

 

将門神社は旧日秀村の村社で、かつてはこのあたりに将門公が出城を築いたと伝えられている。

将門公が戦死した時、その霊が日秀の郷に現れ、「吾は平親王将門の魂である、今よりこの地に止まり村中の老幼を守るであろう」と言って消え失せたという。郷土史誌「湖北村誌」によれば、この地はかつて将門公が(一説には戦死直後にその霊が)朝日を拝した所だといい、将門公没後この地に一宇を建立しその霊を迎えたのがその起源といわれている。

昔は木造の社があったというが、長らく石の祠があるだけだった。高校生の頃に自転車でここを訪れて、鬱蒼とした森の中にぽつんと佇む祠に異様な霊気を感じ、逃げるようにその場を去った記憶がある。

一昨年の平成29年に日秀地区の人々によって拝殿が作られて、将門公にふさわしい立派な佇まいとなった。

拝殿上部に飾られているのは平氏の家紋のひとつである揚羽蝶紋。将門公の紋とされる九曜紋ではなく、あえて揚羽蝶紋にしたのは日秀の人々のこだわりだろうか。キュウリを輪切りにすると九曜紋にも似ているが、日秀地区の人々が忌み嫌う桔梗の紋にも似ている。

 

神社の傍らは断崖になっていて、眼下には手賀沼を干拓した田園風景が広がっている。



calendar

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    
<< April 2019 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM