将門公ゆかりの地を訪ねて(10)〜王城の地(千葉県柏市大井)〜

将門山から広い市道に戻って「嘉平農園」の少し先を右折すると・・・

そこは「相馬の都 平将門王城通り」だ。

 

「王城通り」を100メートル程歩くと民家の先に空き地があり、手作り感120%の案内板が立っていた。

王城の地
将門記の王城の地とは此の地なり

将門記に云く王城を下総の国の亭南に建つべしと。この地より眼下手賀沼を望めば大井の津が一望でき北に筑波山を拝し西に富士山を奉拝し関八州を手中にできる。この地こそ王城建設にふさわしい所であります。かつて奈良時代には相馬郡に六郷が置かれました。手賀沼南岸には大井郷と古溝(こみぞ)郷配され、手賀沼北岸には布佐郷、倉麻(そうま)郷、意部(おぶ)郷、余部(あまるべ)郷が置かれました。また同時代には東海道が京の大津から下総国府を通り大井より布施に渡り戸頭に出、常陸の国の石岡まで整備されました。このように都市機能が整備なされた所に将門は相馬の都を建てることに決定しました。

 

空き地の左脇には民家が一軒あるがその先はこんもりした森を囲むように畑が広がっている。そしてその向こうは手賀沼だ。前回の「将門山」で述べたように王城の地としては申し分ない地のように思われる。

 

ここで「王城の地とは此の地なり」の根拠となっている『将門記』(作者不明、成立年代は天慶の乱の100年程後か)の問題の箇所を見てみよう。以下は『坂東市本将門記』(坂東市立資料館発行)の村上春樹氏による訓読文を引用させていただいた。えっ?あの村上春樹さん?!と思われた方もおられるのではないだろうか。何を隠そう私もその一人だったのだが、同姓同名の別人で、将門研究第一人者の国文学者・・・失礼しました。もし同一人物だったら『将門の森』だったかも。

 

(前略)王城を建つべき議を成す。其記云く、王城を下総国の亭南に建つべし。兼て檥橋(ウキハシ)を以て号して京の山崎と為、相馬の郡大井の津を以て京の大津と為(セ)む。

 

相馬郡大井は現在の柏市大井でよいのだろうが、そうなると文の流れから言って「亭南」は相馬郡ではないことになるのでは?と思ったら、『板東市本将門記』の解説にもそのように書かれていた。「将門の王城建設は後世の演劇の世界で拡大されているが、現実にはそれを建設する時間的な余裕はない。その場所として相馬郡があてられ、「相馬内裏」などとよばれるが、「相馬郡大井津号為京大津」としていることは、その地が相馬郡内ではなかったことを暗示する。場所としては、以前からの将門の本拠地石井営所があったとされる板東市岩井が適当。」

 

上の解説にあるように、新皇就任と国守任命、王城建設の議決がなされたのが天慶2年(939)12月19日で、翌天慶3年2月14日には新皇将門は討たれてしまったのだから時間的に王城は建てられていない。したがって発掘調査をしても何も出てこないわけだが、手賀沼湖畔にそびえ立つ板東の覇者の王城を想像するのも楽しいではないか。


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