将門公ゆかりの地を訪ねて(5)〜手賀沼〜

我孫子日秀から柏市手賀へ手賀沼を渡ってみる。湖沼というより川である。それもそのはずで、このあたりは「手賀川」というのが正式名称で、両岸は干拓によって作られた田畑だ。

手賀沼・印旛沼の干拓というと教科書で習った田沼意次の名を思い浮かべるが、江戸時代に干拓されたのはここからさらに東のJR新木駅の南、浅間堤から東側だ。それも氾濫によって何度も頓挫したようである。昭和19年には対岸の手賀に渡ろうとした教職員17名が突風で船が転覆して亡くなっている。戦後、電気ポンプによる干拓事業が再開されて完成したのは昭和40年代前半というから、つい最近まで、日秀の台地上から将門公が朝日を拝んだのとさほど変わらない風景が広がっていたのである。

 

中世までの手賀沼は香取海(かとりのうみ)の入り江のひとつで、手下海または手下浦と呼ばれていた。香取海は学術的には古鬼怒湾というそうだが、鬼怒川や小貝川が流れ込み、今の霞ヶ浦、北浦、牛久沼、印旛沼、佐原・潮来にまたがる水郷地域、そして手賀沼がひとつになった広大な内海(鹿島灘に湾口を開く汽水湖)だった。ちなみに利根川は徳川幕府による水路の付け替え(利根川東遷)まで東京湾に注いでいた。

 

新元号「令和」の典拠として脚光を浴びている「万葉集」には、

 

 大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物念はざらむ(柿本人麻呂)

 

と詠われている。

 

日秀のある我孫子台地と対岸の手賀台地は、将門の本拠地とされる茨城県坂東市方面から見ると、香取海に突き出した半島のようになっていた。いずれの台地にも平将門公ら桓武平氏の流れを継ぐ千葉氏、相馬氏の古城、出城跡が点在しており、軍事上重要な地域であったことがわかる。

 

この写真は千葉県立手賀沼自然ふれあい緑道から手賀大橋方面を臨む手賀沼の景色。

手賀沼は我孫子・柏両市民いこいの場だ。


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