古代東海道を行く(つもり)散歩(2)

 東海道というと江戸時代の五街道の「東海道」を思い浮かべるが、それとは別の「古代東海道」というものがあった。古代日本の律令制下では都を起点にする、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道と、山陽道の終点大宰府を起点とする西海道の7つの官道が設けられた。この道路は都と各国府を結ぶ情報連絡道路かつ軍用道路で、30(16km)ごとに乗馬と食料を供給する駅が設置された。

 

 

 東海道の終点は常陸国府(現茨城県石岡市)だが、東国におけるルートは時代とともに変遷している。東海道が設置された7世紀後半は三浦半島走水から東京湾の入り口、浦賀水道を船で渡り、房総半島富津岬に上陸して上総国府(現千葉県市原市)を経由して常陸国府へと北上した。日本武尊の東征の際、妃の弟橘媛の悲話が生まれたあのルートだ。その時点では武蔵国は東山道の支路、下総国は上総国から伸びる支路だった。ちなみに現在の地理感覚では下総と上総が逆のように感じるが、都から来て先に到着するのが上総で下総はその先にあったからだ。以後、幾度かの変遷を経て相模国、武蔵国、下総国を通り常陸国に至るルートが整備されたのは平安前期のことである。

 

 前置きが長くなったが、今回歩くのは下総国府(現千葉県市川市国府台)と常陸国府を結ぶルートの一部分ということになる。実のところ、この間のルートについては諸説あるのだが、柏市史の説に従って歩いてみる。

 

 

 

 下総国府に近接して設置されたと推定される井上駅を出た後、東海道は市川・松戸市境から松戸市二十世紀が丘を通り、新京成線八柱駅からは県道市川柏線となって南増尾に至る。このあたりには道の両側に「右大道」「左大道」という字名が残っているそうだ。

 

 

 道はここで二又に分かれる(上の地図A地点)。今日まっすぐに見える県道市川柏線は実はやや左に角度を変えて伸びており、直線方向は右の道で、東海道はこちら。古代駅路はその目的上、国府間をできる限り最短距離で結んだ。そのため少々の地形的障害があっても、丘は切り通し、湿地には堤を築いて可能な限り直線的に作られた。

 

 

 しばらくすると東武アーバンパークライン(野田線)逆井駅の踏切を渡る。

 

 

 


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