古代東海道を行く(つもり)散歩(5)

 

東海道は廣幡八幡宮の脇を通ったあと、台地を下って大津川沿いの低地帯に出る。古代東海道が設置された当時は手賀沼の入り江だったという。

 

 

藤心方面から続く田んぼ沿いの道路があるが、もう一本、それと並行して走るまっすぐな細道がある。

 

 

田んぼ沿いの道よりも一段高い所を通っていて、道と道の間の細長い部分(写真右側)は堤のようにも見える。もしかすると東海道設置の際に築かれた堤の痕跡かもしれないなどと想像すると妙にうきうきする。

 

 

道は舌状台地の端をかすめて北上する(地図G地点)。舌状台地の上には中世の城郭跡、増尾城址がある。城主は不明だが土塁や空堀などがかなり良い状態で残っている。

 

 

台地の端からは増尾湧水が湧き出ている。ニッカウヰスキー東京工場が柏市増尾に移転したのはこの地帯に良質な水が湧くからだという話もある。東海道を行く伝令たちもこの湧水でのどを潤したかもしれない。

 

 

東海道は名戸ヶ谷の低地(地図H地点)を通過して再び台地を上る。坂を上り切ったところで県道柏印西線と交差するが(柏市関場町)ここから先は見事なまでの直線道路が続く(I地点)。地図で見ても柏の市街地にあって異色の存在だ。

 

 

今回の「古代東海道を行く(つもり)散歩」はここでひと区切り。この先東海道は桜台から手賀沼に下り(地図K地点)、我孫子市根戸(L地点)を経由して馬の背のような我孫子台地を東に進み(国道356号線)、於賦(おふ)駅と推定される我孫子市新木に至る。茜津駅と於賦駅間の距離は約16km。駅の設置基準ドンピシャである。於賦駅の次は榛谷(はんだ)駅(茨城県龍ヶ崎市半田町)である。

 

 

追記:

我孫子市湖北と新木の間の日秀(ひびり)地区に、地元では「かまくら道」と呼ばれている畑の中の一本道がある。

近くには相馬郡衙(律令時代の役所)正倉跡といわれる遺跡があり、この道も古代東海道の一部ではないかと思うがいかがだろう。於賦駅もこの近辺と推定されている。


古代東海道を行く(つもり)散歩(4)

古代東海道を推定するときに決め手のひとつとなるのが先に述べた直線性で、その際参考になるのが明治時代に作られた迅速測図という地図だ。迅速測図を見ると石塔に「西 すはみち」と示されている西(おそらく北西)に向かう道路が描かれていない。「迅速」というくらいだから急いで作ったために描き落としてのかもしれないが取るに足らない細道だったのかもしれない。では成田山月参講中の石塔がいつ建てられたのかという疑問も残ってしまうが、道の交わり方からしても狐峠から廣幡八幡宮に通じる道はニッカ通りに優先する道路だったのはほぼ間違いないだろう。

 

上の写真右手がニッカウヰスキー柏工場の敷地

ニッカウヰスキー柏工場

 

廣幡八幡宮までのこの道は直線性といい、風情といい、こここそが古代東海道に違いない、あるいはそうであってほしいと思う道路である。

 

 

脇道と交わる辻々に道六神や山王権現、征清軍馬記念碑などの石塔が祀られていて、昔から大切な道だったことが窺える。

 

 

直線道路の正面に荘厳な構えで鎮座するのが廣幡八幡宮(地図F地点)。御祭神は、誉田別命(15代応神天皇)・気長足姫命(神功皇后)・玉依姫命で、合祀による御祭神は、仲哀天皇・武内宿称の二柱。社伝によれば、第59代宇多天皇の御代「下総国第一鎮守宇多天皇勅願所」として創建されたと伝えられ、建久年間四年(1193年)後鳥羽天皇の御代に、柏市近郊一帯の総鎮守(守護神)として再び社殿が創建されたとある。宇多天皇の在位は887年から897年だから東海道がこのルートに付け替えられた頃と重なるかもしれない。

 


古代東海道を行く(つもり)散歩(3)

 

住宅地の中を進むと道は二又に分かれ、真ん中に道祖神がたたずんでいる(地図B地点)。

 

 

今の主線は右の道だが、東海道は左の方。やや狭い道だが交通量は右の道よりも多い。このあたりの字名は狐峠という曰くありげな地名だ。この二又を境に左右どちらに進んでも下り坂になる。

 

 

左の道を行くと程なく低地に出て視界が開ける。

 

 

このあたりが井上駅の次、茜津駅と推定される場所だ(地図C地点)。井上駅からの距離は約14.5kmで駅間30里とほぼ合致する。現在は手賀沼に注ぐ大津川が流れ、川沿いに田畑が広がっているが、古代においては手賀沼の入り江がここまで来ていたという。東海道はここで陸路と水路の両方が使われていた。次の於賦(おふ)駅の所在地と推定される我孫子市新木は手賀沼の北岸にあり、なるほどと思わせる説である。

 

ここは藤心(ふじごころ)というきれいな町名だが、古くからの要衝だったことは江戸時代に代官所が置かれていたことからもわかる。

 

 

陸路を行く東海道はここから再び台地を上る。

 

 

柏市史にははっきり示されていないが、古代東海道は「ニッカ通り」と名付けられている主要市道ではなく、先ほどの狐峠からこの先の廣幡八幡宮に通じる直線道路との連続性を考えると、住宅地の中を抜ける道ではないだろうか(地図D地点)。ただし、B地点とD地点の間は小さな谷になっていて現在は道がないため、一旦C地点に出てコンビニの先を左折してD地点に向かうことにする。

 

 

住宅地を抜けると道は静かな林の中に入っていく。初めに疑問を感じて古代東海道を調べるきっかけになった十字路(地図E地点)はこの先だ。


古代東海道を行く(つもり)散歩(2)

東海道というと江戸時代の五街道の「東海道」を思い浮かべるが、それとは別の「古代東海道」というものがあった。古代日本の律令制下では都を起点にする、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道と、山陽道の終点大宰府を起点とする西海道の7つの官道が設けられた。この道路は都と各国府を結ぶ情報連絡道路かつ軍用道路で、30(16km)ごとに乗馬と食料を供給する駅が設置された。

 

 

東海道の終点は常陸国府(現茨城県石岡市)だが、東国におけるルートは時代とともに変遷している。東海道が設置された7世紀後半は三浦半島走水から東京湾の入り口、浦賀水道を船で渡り、房総半島富津岬に上陸して上総国府(現千葉県市原市)を経由して常陸国府へと北上した。日本武尊の東征の際、妃の弟橘媛の悲話が生まれたあのルートだ。その時点では武蔵国は東山道の支路、下総国は上総国から伸びる支路だった。ちなみに現在の地理感覚では下総と上総が逆のように感じるが、都から来て先に到着するのが上総で下総はその先にあったからだ。以後、幾度かの変遷を経て相模国、武蔵国、下総国を通り常陸国に至るルートが整備されたのは平安前期のことである。

 

前置きが長くなったが、今回歩くのは下総国府(現千葉県市川市国府台)と常陸国府を結ぶルートの一部分ということになる。実のところ、この間のルートについては諸説あるのだが、柏市史の説に従って歩いてみる。

 

 

 

下総国府に近接して設置されたと推定される井上駅を出た後、東海道は市川・松戸市境から松戸市二十世紀が丘を通り、新京成線八柱駅からは県道市川柏線となって南増尾に至る。このあたりには道の両側に「右大道」「左大道」という字名が残っているそうだ。

 

 

道はここで二又に分かれる(上の地図A地点)。左のまっすぐに見える県道市川柏線は実はやや左に角度を変えて伸びており、直線方向は右の道で、東海道はこちら。古代駅路はその目的上、国府間をできる限り最短距離で結んだ。そのため少々の地形的障害があっても、丘は切り通し、湿地には堤を築いて可能な限り直線的に作られた。

 

 

しばらくして東武アーバンパークライン(野田線)逆井駅の踏切を渡る。

 

 

 


古代東海道を行く(つもり)散歩(1)

散歩道で常々気になっていた所がある。柏市増尾にあるニッカウヰスキー柏工場脇の小さな十字路だ。この十字路は道が斜めに交差する、現代人には不自然に感じる、そして車を運転する人間にとっては見通しがきかず厄介な交差点である。

 

 

傍らに「成田山月参講中」の石塔がある。この石塔は道標を兼ねていて「東 ふじごゝろ道 ふなバし道」「西 すはみち」「南 松戸道 江戸道」「北 かしは」と読める。斜めに交差しているので正確には「東西南北」ではない。(約)東西を結ぶ道路は「ニッカ通り」名付けられている広い市道で、西は柏レイソルの本拠地、日立柏サッカー場を通って柏の中心街へ通じる。その先には確かに流山市駒木の諏訪神社がある。東は柏市藤心へ通じる。一方(約)南北の方はというと、北はこの近在の総鎮守である廣幡八幡宮に至るまっすぐな道、南はというと森の中に消え行ってしないそうな細道で、松戸や江戸に通じるというには違和感がある。

 

 

そんな折、廣幡八幡に至るまっすぐな道は「古代東海道」であるというネットサイトを偶然見つけ、柏市史(柏市教育委員会編さん)を読みながら、改めて道をたどってみることにした。

 


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