将門公ゆかりの地を訪ねて(13)〜大津川(千葉県柏市大井)〜

鎌ケ谷市くぬぎ山に端を発する大津川が手賀沼に注ぎ込む付近。対岸は我孫子市。

写真右端に見える木々が茂ったあたりが将門山や福満寺がある大井の台地だ。今は田畑になっている所(大井新田)も割と最近まで湖で、その昔は大津川の河口もずっと上流だったが、この美しい景色を見ていると将門公が「相馬の郡大井の津を以て京の大津と為(セ)む」と言ったのもわかるような気がする。


大津川というのは大井の津に注ぎ込む川という意味だろうか。もしかすると名付け親は将門公だったのかもしれない。

2005年に柏市と沼南町が合併するまで、この川が市と町の境界だった。高度成長期、流域の排水が流れ込み、ワースト1と言われた手賀沼の水質汚染の元凶の1つだった大津川も、今は水鳥が遊び釣り人が糸を垂れるのどかな川に戻ってきた。

 

将門公もほっとしていることだろう。


将門公ゆかりの地を訪ねて(12)〜福満寺(千葉県柏市大井)〜

天台宗教永山福満寺は、桓武天皇の時代(781〜806)の創建といわれる古刹である。

将門公の愛妾、車の前が将門公の敗死後ここに逃れて堂を建て、菩提を弔ったという伝説が残っている。福満寺の南に「車の前五輪塔」という大きな供養塔があるらしいが、残念ながら見つけられなかった。

 

本堂の横に将門大明神が祀られている。

「大井の都」というのは「王城を下総国の亭南に建つべし。兼て檥橋(ウキハシ)を以て号して京の山崎と為、相馬の郡大井の津を以て京の大津と為(セ)む」という「将門記」の記述に基づくものだろう。

 

先に述べたように「王城の地」としては残念ながら疑問符が付くが、「京の大津」に擬えられたのはここ手賀沼湖畔の大井と考えてよいだろう。

 

山門を兼ねたこの立派な鐘楼は、「近江八景」に倣って選定された「手賀八景」のうち、「三井の晩鐘」の写し「大井の晩鐘」と呼ばれる。

手賀八景の選定は江戸時代以降のことだが、この地を琵琶湖畔に見立てたのは将門公なのだ。

 

寺の入口の看板に書かれている「大井の七人影武者伝説の地」というのは、将門公が操ったという7人の影武者にまつわるもの。その影武者ゆかりの地がここ大井で、坂巻、石原、石戸、吉野、富瀬、久寺家、座間の七家がそれという。真偽はともあれ興味深い伝説だ。


将門公ゆかりの地を訪ねて(11)〜将門塚(千葉県柏市大井)〜

前に「きっかけ」の項で触れた郷土史本「下総国札」(岡田秀樹著)に気になる記述があった。

 

「(福満寺から)将門山への途中に、将門を祠ってあるという小さな森がある。この森に入ると必ず将門のたたりがあって、手足がしびれて動かなくなるという。禁足地だったらしい。中をのぞくと祠が二つ並んでいる。(福満寺の)住職が止めるのも聞かず入ってみた。祠の主は時代不明の板碑だった。いつの間にか、出土した板碑を将門の供養碑と考えて大切にしてきたのだろう。無断で森に入った罰があるかと思ったが、幸い手も足もその後無事に動いている。」

 

「王城の地」の中程にこんもりとした森がある。

上記の本が出版されたのは1983年で当時の状況はわからないが、今は周りは畑と空き地で森に通じる道は見当たらない。

公道なのか私道なのか、砂利道が一本あって森に少しだけ近づくことができた。

目をこらすと祠らしきものが見える。それも二つ。これこそかの禁足地の森、「将門塚」に違いない。先の本の著者はさすがは郷土史家だけあって大胆にも中に入ったが、たとえ森に通じる道があったとしても私には足を踏み入れる勇気はなかっただろう。霊気漂う森である。

心の中で遠目にも覗き込んだ非礼を詫びて王城の地を後にした。


将門公ゆかりの地を訪ねて(10)〜王城の地(千葉県柏市大井)〜

将門山から広い市道に戻って「嘉平農園」の少し先を右折すると・・・

そこは「相馬の都 平将門王城通り」だ。

 

「王城通り」を100メートル程歩くと民家の先に空き地があり、手作り感120%の案内板が立っていた。

王城の地
将門記の王城の地とは此の地なり

将門記に云く王城を下総の国の亭南に建つべしと。この地より眼下手賀沼を望めば大井の津が一望でき北に筑波山を拝し西に富士山を奉拝し関八州を手中にできる。この地こそ王城建設にふさわしい所であります。かつて奈良時代には相馬郡に六郷が置かれました。手賀沼南岸には大井郷と古溝(こみぞ)郷配され、手賀沼北岸には布佐郷、倉麻(そうま)郷、意部(おぶ)郷、余部(あまるべ)郷が置かれました。また同時代には東海道が京の大津から下総国府を通り大井より布施に渡り戸頭に出、常陸の国の石岡まで整備されました。このように都市機能が整備なされた所に将門は相馬の都を建てることに決定しました。

 

空き地の左脇には民家が一軒あるがその先はこんもりした森を囲むように畑が広がっている。そしてその向こうは手賀沼だ。前回の「将門山」で述べたように王城の地としては申し分ない地のように思われる。

 

ここで「王城の地とは此の地なり」の根拠となっている『将門記』(作者不明、成立年代は天慶の乱の100年程後か)の問題の箇所を見てみよう。以下は『坂東市本将門記』(坂東市立資料館発行)の村上春樹氏による訓読文を引用させていただいた。えっ?あの村上春樹さん?!と思われた方もおられるのではないだろうか。何を隠そう私もその一人だったのだが、同姓同名の別人で、将門研究第一人者の国文学者・・・失礼しました。もし同一人物だったら『将門の森』だったかも。

 

(前略)王城を建つべき議を成す。其記云く、王城を下総国の亭南に建つべし。兼て檥橋(ウキハシ)を以て号して京の山崎と為、相馬の郡大井の津を以て京の大津と為(セ)む。

 

相馬郡大井は現在の柏市大井でよいのだろうが、そうなると文の流れから言って「亭南」は相馬郡ではないことになるのでは?と思ったら、『板東市本将門記』の解説にもそのように書かれていた。「将門の王城建設は後世の演劇の世界で拡大されているが、現実にはそれを建設する時間的な余裕はない。その場所として相馬郡があてられ、「相馬内裏」などとよばれるが、「相馬郡大井津号為京大津」としていることは、その地が相馬郡内ではなかったことを暗示する。場所としては、以前からの将門の本拠地石井営所があったとされる板東市岩井が適当。」

 

上の解説にあるように、新皇就任と国守任命、王城建設の議決がなされたのが天慶2年(939)12月19日で、翌天慶3年2月14日には新皇将門は討たれてしまったのだから時間的に王城は建てられていない。したがって発掘調査をしても何も出てこないわけだが、手賀沼湖畔にそびえ立つ板東の覇者の王城を想像するのも楽しいではないか。


将門公ゆかりの地を訪ねて(9)〜将門山(千葉県柏市大井)〜

手賀沼の西南、柏市大井地区に将門山と呼ばれる高台がある。将門公が城を築いたという言い伝えがある地だ。

手賀大橋方面から手賀沼沿いの道を進み、左手に柏リハビリテーション病院のすぐ先に見えるのが将門山で、その先のHホテルの先を左折(うなぎ屋の幟が目印)、坂を上りきるかきらないかという所の細道を鋭角に左折する。かく言う私はこの細道がそれとわからず、3往復した挙げ句、「嘉平農園」の脇に路駐して探し回りようやく発見した。すれ違い出来ない細道の先に丁字路があり、左に行くと車を回せる駐車場がある。

昔はこの高台の真下まで湖水が迫っていたことだろう。沼沿いの道から見ると沼に突き出た岬のようになっていて、守るに易く、またこのあたりを通っていたといわれる古代東海道を見下ろす軍事上重要な地であったと想像できる。

対岸は我孫子の市街地だ。

実はこの高台は「船戸古墳群」としての方が有名だ。6世紀後半から7世紀前半にかけて造られた前方後円墳7基、円墳33基の計40基から成る古墳群だ。副葬品に馬具や飾り太刀の一部が発見されていることから被葬者は手賀沼南岸の有力者と考えられるという。

将門山から左手にもうひとつこんもりした森が見える。実はそこにも興味深いものがあるのだ。


将門公ゆかりの地を訪ねて(8)〜きっかけ〜

さて、このあたりで何故今この時期に平将門?と思っておられる皆様に少々説明をさせて頂きます。

 

きっかけ1(遠い昔のそもそも話)
高校2年の時、千葉県我孫子市に引っ越した。我孫子は人口13万の東京のベッドタウンで、大正から昭和初期にかけては志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦らが移り住み、「北の鎌倉」とも称された文化薫る都市だが、時代を一気に遡って律令時代には下総国相馬郡の一部。平将門は幼少時代、相馬小次郎と呼ばれていた。幼稚園2園、小学校4校・・・転校には慣れているとは言え、転入試験を受けての高校転校には少々消耗したが、折しもNHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」が放送中、我孫子は将門伝説が残る地で地理好き歴史好きの私にはちょっとした喜びではあった。

「風と雲と虹と」は大河ドラマのお手本のような番組で、山本直純さん作曲のあのオープニングテーマには大いに鼓舞されたし、去年亡くなった加藤剛さん演じる将門ははつらつとしてかっこよかった。NHKは局員全員でこの大作を鑑賞し、余計な迷いや忖度を反省して原点に立ち戻ってほしい。世の中には変えてはいけないものもたくさんあるのだ。

 

きっかけ2
今年の正月に実家に泊まった折、88になる母が私と同じ年齢の頃に地域の勉強会で使ったという郷土史本「下総国札 」をたまたま本棚に見つけた。

暇つぶしに読んでいたら将門にまつわる記述が所々にあって、改めて将門伝説が残る地を訪れてみたいと思った。

 

きっかけ3
今年の2月14日、大好きな番組、「英雄たちの選択」(NHK BSプレミアム)で、平将門が取り上げられた。その日はうっかりチョコレートなんかをブログネタにしてしまったが、2月14日は将門公の命日なのだ。

前々から将門公ゆかりの地はHPかブログにまとめてみたいと思っていたのだが、この番組を見て一気に火が付いた。もちろん、「弱きを助け強きを挫く」板東武者、平将門公を敬愛しているのは大前提だ。

 

そんなわけで言い訳をさせて頂きました。「将門公ゆかりの地を訪ねて」はまだまだ続きます。乞うご期待。


将門公ゆかりの地を訪ねて(7)〜龍光院地蔵堂〜

龍光院の創立は長享2年(1488)とされるが、父の戦死後にこの地に移り住んだ将門公三女の如蔵尼が地蔵尊を崇まい、一宇を建てたのが始まりとされる。隣接する将門神社は龍光院が管理している。

 

山門を入って右手にある現在の地蔵堂は安政3年(1856)に建てられたものだ。

 

傍らに昭和53年8月に建てられた案内板がある。将門神社のものとは違い、一字を除き読むことができたので転記する。

将門の第三女如蔵尼は母親君の御前と共に大変美人であったので数多く結婚を求められたが独身で暮していた。父将門が戦いに敗れてから此所岩井の地に庵を結んでひっそりと暮していた。ところが或る日病気になるとたちまち地獄に堕ちたが地蔵菩薩に助けられて蘇生し地獄から帰されて、それから如蔵尼と改名し地蔵尊に深く帰依して齢八十余りのとき端座して入滅したと伝えられる。如蔵尼とは地蔵様のように情深い尼僧と云う意味である。父将門の霊を祠に祭り、将門大明神とし現在の将門神社の始めであり同時に地蔵堂を建立し尊像を安置し信心三昧に暮せり。天和二年岩井村灰燼となる大火に際しても御本尊は自ら火炎を□れて村民の安穏をお守りになられた。

 

ここ岩井地区にも、成田山詣でをしないとか桔梗を植えないといった、対岸の我孫子市日秀と同様の風習、しきたりがあるようだ。


将門公ゆかりの地を訪ねて(6)〜将門神社(千葉県柏市岩井)〜

柏市岩井地区にも将門神社がある。

「岩井」というと平将門の本拠地であり、終焉の地でもあったところも「岩井」(茨城県坂東市岩井)であり、いわくありげだ。ちなみに坂東市の岩井には國王神社があり、御神体は将門の三女、如蔵尼が33回忌に彫った平将門木像である。

将門神社は岩井集落の中心にあり、隣には真言宗豊山派の寺院・龍光院が寄り添うように建っている。

青年館の軒下が参道になっているのが面白い。

手賀台地周辺には将門公が住んだと伝えられる館(別荘?)や出城跡が点在しており、この将門神社は三女の如蔵尼が父の敗死後、その霊を祀ったのが始まりとされる。

石灯籠には「寛政12年」(1800)の文字が刻まれているが、現在の社殿は安政6年(1859)に再建されたものだという。

小ぶりではあるが見事な彫刻が施された素晴らしい社殿だ。

正面は龍。

左側面は「鶴亀高砂」。

右側面は流れ矢で右目を射貫かれて戦死したという将門公に倣い右目が未完成の「隻眼の姫君」。

背面には乗馬の達人だった将門公を偲んだ「放れ馬」。福島県の相馬野馬追は、将門公を祖とする相馬氏がその軍事訓練を受け継いだものだ。

 

このような美しい社殿をぐるりと一周、手で触れられる(もちろんそんな罰当たりなことはしないが)至近距離で観ることができる。ありがたいことではあるが、あまりにも無防備だし、風雨による損傷も心配だ。中尊寺の金色堂までとは言わないが、覆い堂のようなものは作れないものか。

 

昭和六十?年に(岩井)区民によって建てられた案内板は「将門大明神 祭神 平新皇将門」の他は残念ながらほとんど読めない。


将門公ゆかりの地を訪ねて(5)〜手賀沼〜

我孫子日秀から柏市手賀へ手賀沼を渡ってみる。湖沼というより川である。それもそのはずで、このあたりは「手賀川」というのが正式名称で、両岸は干拓によって作られた田畑だ。

手賀沼・印旛沼の干拓というと教科書で習った田沼意次の名を思い浮かべるが、江戸時代に干拓されたのはここからさらに東のJR新木駅の南、浅間堤から東側だ。それも氾濫によって何度も頓挫したようである。昭和19年には対岸の手賀に渡ろうとした教職員17名が突風で船が転覆して亡くなっている。戦後、電気ポンプによる干拓事業が再開されて完成したのは昭和40年代前半というから、つい最近まで、日秀の台地上から将門公が朝日を拝んだのとさほど変わらない風景が広がっていたのである。

 

中世までの手賀沼は香取海(かとりのうみ)の入り江のひとつで、手下海または手下浦と呼ばれていた。香取海は学術的には古鬼怒湾というそうだが、鬼怒川や小貝川が流れ込み、今の霞ヶ浦、北浦、牛久沼、印旛沼、佐原・潮来にまたがる水郷地域、そして手賀沼がひとつになった広大な内海(鹿島灘に湾口を開く汽水湖)だった。ちなみに利根川は徳川幕府による水路の付け替え(利根川東遷)まで東京湾に注いでいた。

 

新元号「令和」の典拠として脚光を浴びている「万葉集」には、

 

 大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物念はざらむ(柿本人麻呂)

 

と詠われている。

 

日秀のある我孫子台地と対岸の手賀台地は、将門の本拠地とされる茨城県坂東市方面から見ると、香取海に突き出した半島のようになっていた。いずれの台地にも平将門公ら桓武平氏の流れを継ぐ千葉氏、相馬氏の古城、出城跡が点在しており、軍事上重要な地域であったことがわかる。

 

この写真は千葉県立手賀沼自然ふれあい緑道から手賀大橋方面を臨む手賀沼の景色。

手賀沼は我孫子・柏両市民いこいの場だ。


将門公ゆかりの地を訪ねて(4)〜将門の井戸(千葉県我孫子市日秀)〜

将門の井戸は市道を将門神社と反対方向にゆるやかな坂道を20メートル程下ったところにある。住所は我孫子市日秀字石井戸。

巨木の根元に直径2〜3メートル程の窪地があって、のぞき込んだが水は見えなかった。

20年近く前にも一度訪れたことがある。その時は草が生い茂り、落ち葉がふき溜まって何が何だかよくわからなかったが、今回はきれいに清掃されていた。地元の人たちが管理しているのだろう。

この井戸は将門公が軍用に開いたものだと伝わっている。地形的に見て、我孫子台地に染みこんだ雨水が手賀沼の岸辺のこのあたりでこんこんと湧き出していたのだろう。



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