将門公ゆかりの地を訪ねて(20)〜板東郷土館ミューズ(茨城県板東市山)〜

連載「将門公ゆかりの地を訪ねて」を毎日楽しみに待っていてくださる皆さん、今回はいよいよ将門公はどこに王城を建設しようとしたのかを書きたいと思う。

 

だがその前に、ネタ元を明かしておかなければならない。

 

昨年ブログを書いていて曲がりなりにも将門公を語るからには「将門記」を読まなくてはならないと思い調べていたら、坂東市が平成28年に漢文に読み下し文と現代語訳を加えた「坂東市本将門記」巻子本を作成し、合わせて読み下し文と現代語訳、さらに注釈を付けた「坂東市本将門記 現代語訳」を刊行したことを知った。発行元の坂東市立資料館(板東郷土館ミューズ)に問い合わせたところ、まだ残部があるとのことなので早速訪れた次第。

板東郷土館ミューズでは十数年間隔で平将門企画展を開催しているそうで、次回やる時には是非案内状を送ってほしいとお願いしておいた。

今年の2月14日から書き始めた「将門公ゆかりの地を訪ねて」の坂東市編は「坂東市本将門記 現代語訳」と板東郷土館ミューズの過去2回の将門展冊子を参考にしていることをお断りしておきたい。

 

さて、将門公が築こうとした王城の地を語るには、当時の地形と行政区分を確認しなければならない。

これが当時の板東八ヵ国(「坂東市本将門記 現代語訳」より)。一番上から時計回りに、下野国(しもつけ・国府は現在の栃木県栃木市)、常陸国(ひたち・国府は現在の茨城県石岡市)、下総国(しもうさ・国府は現在の千葉県市川市)、上総国(かずさ・国府は現在の千葉県市原市)、安房国(あわ・国府は現在の千葉県館山市)、相模国(さがみ・国府は現在の神奈川県海老名市?小田原市?平塚市?大磯町?)、武蔵国(むさし・国府は現在の東京都府中市)、上野国(かみつけ/こうずけ・国府は現在の群馬県前橋市か)。

 

<下総+上総+安房=だいたい現在の千葉県>なのだが(どうして地図の上(北)が下総で下(南)が上総なのかについてはまた別の機会で)、チーバくんの鼻が上に腫れ上がっているのにお気づきだろうか。ちなみにチーバくんというのは千葉県のマスコットキャラクターで千葉県の形をしている。鼻先から耳にかけての頭部のラインが茨城県境になっている利根川ということになる。

(千葉県公式サイトより)

ご存じのように、江戸幕府による付け替え工事(「いわゆる利根川東遷」)で犬吠埼から太平洋に流れ出るようになる以前、利根川は東京湾に注いでいた。したがって下総と常陸の国境は利根川ではなく、香取の海(霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼を含んだ内海)に注ぎ込む小貝川と鬼怒川だった。

(板東郷土館ミューズ板東市本将門記企画展のパンフレットより)

(「坂東市本将門記現代語訳」より)

現在の地図と見比べてみてほしい。

 

ざっくり言うと現在の茨城県坂東市、常総市、守谷市、取手市南部は下総国に属していた。そしてその地域(将門の時代でいうと猿島郡、豊田郡、相馬郡。相馬郡は千葉県我孫子市と柏市の北東部を含む)こそが父良将から将門が受け継いだ本拠地であり、その相続を巡って伯父たちと争い(当時は兄弟相続から長子相続への転換期だった)、ついには天慶の乱へと発展した場所なのだ。

 

だいぶ前置きが長くなったが、「王城を下総国の亭南に建つべし。兼て檥橋(ウキハシ)を以て号して京の山崎と為、相馬の郡大井の津を以て京の大津と為(セ)む」を読み解くには最低限必要な知識だ。

 

この王城建設宣言をしたのは天慶2年12月19日上野の国府においてのこと。上野国から見て「下総国の亭南」と言っている。その後で「相馬の郡」と言っているのだから文脈上「亭南」は相馬郡ではないということになる。

 

上の写真は以前ご紹介した柏市大井の「王城の地」とされる場所。ここは相馬郡なので残念ながらおそらくここではない。


では「亭南」とはどこかだが、昔から学者さん方が探してわからないのだから地名ではないだろう。とすると「亭の南」ということになり、「亭」とはどこ?ということになる。「亭」を漢和辞典で調べるとあずまや、簡素な建物、物見台とある。同じ読みの「邸」はやしき、大きな家で、高級官吏の豪邸を指した言葉のようだ。石井(岩井)の営所は将門の館もあったのだろうが、兵士の駐屯地であり、物見台もあったことだろう・・・とここまで書いてこじつけが過ぎることに我ながら苦笑してしまった。

 

結論として王城建設の地は坂東市岩井の島広山(石井営所跡)、それも「九重の桜」あたりということでいいのではないかと思う。九重の桜は島広山の真南200mほどの所にある。猿島郡主平守明が祖先と仰ぐ将門公の夢の地に御所の桜を植えた。将門公の死から500年近く経ったその当時、地元ではすでに王城建設の地と伝えられていたに違いない。

結局は情緒的な推測になってしまったが、一応の結論としたい。

 

ということでシリーズ第2弾はここまで。第3弾をお楽しみに!


将門公ゆかりの地を訪ねて(19)〜九重の桜(茨城県板東市岩井)〜

島広山・石井営所跡の近くに「九重(ここのえ)の桜」という史跡名勝がある。「石井の井戸」と同じように台地の縁が田んぼに突き出したような地形だ。

訪れた2019年4月7日、周辺のソメイヨシノは満開だったが、ここの九重(ちょっと韻を踏んでみた)の桜はまだつぼみが堅かった。かなりの遅咲きらしい。

ここにも石造りの立派な案内板があるので、そのまま転記させていただく。

 

九重というのは「王宮」「皇居」を表す言葉で、むかし中国の王城の門は、九重につくるならわしであり、それから生まれたものである。伝えよると、この桜は、京都御所の「紫宸殿」前の桜を株わけし、将門公ゆかりの地に植えたものといわれ、もと十数株群生していて、春になると単弁の白花が咲いて美しく、遠望すると白雲のようであったという。

 

株分けして植えたのか主語がないが、将門自身という説と猿島郡主平守明という説がある。での宮仕えに辟易した将門公がわざわざ忌まわしい記憶を持ち帰るとは考えにくく、ここは将門の末裔といわれる守明が偉大な先祖が王城を築こうとしたこの地に御所の桜を植えてその霊を慰めたのだと考えれば心情的にもすっきりする。

 

王城の地については「将門記」に次のような記述がある。天慶2年12月15日に上野国府を手中に収め、同月19日に新皇就任を宣言し板東8国の国司を任命したときのことである。

 

「王城を下総国の亭南に建つべし。兼ねて檥橋(ウキハシ)を以て号して京の山崎を為、相馬の郡大井の津を以て京の大津と為(セ)む。」(読み下し文:坂東市本将門記)

 

京の都を写そうとしていることがわかる。「檥橋」は比定地はいくつかあるらしいが不明。「大井の津」は当ブログでも紹介した手賀沼湖畔の柏市大井が有力候補。問題の王城だが・・・

 

これを語り始めると長くなるので、続きは次回に。


将門公ゆかりの地を訪ねて(18)〜延命寺(茨城県板東市岩井)〜

島広山の「石井の営所跡」から数百メートル南に、「島の薬師」として親しまれている延命寺がある。

 

案内板をそのまま転記させていただく。

 

延命寺は島広山の台上に石井営所(島広山)の鬼門除けとして建立された。天慶3年(940)藤原秀郷、平貞盛等に石井営所一帯を焼かれた時、薬師如来像は移し隠され、世の静まるのを待って現在の低湿地に祀られた、島の薬師として知られている。文安2年(1445)守谷城主相馬家が大檀那となって本堂、薬師堂、山門を建てたが、その後火災にあい山門だけが残った。薬師堂は有慶上人によって再建されたが、これも焼け、現在は仮堂である。延命寺の本尊「大日如来座像」は県の重要文化財に、山門、石製太鼓橋は市の重要文化財に指定されている。

 

なかなか立派な山門である。将門公の母は相馬氏につながる家の出であり、相馬氏は平将門の子孫を名乗ることから将門公ゆかりの寺の再建に力を貸したということだろう。相馬氏は後に下総相馬氏と奥州相馬氏に分かれたが、有名な相馬野馬追の起源は将門公の軍事訓練とされる。将門軍は騎馬戦に長け、瞬く間に板東8国府を掌握したのであった。

 

相馬野馬追は子供の頃、いわきに住んでいた時に見に行ったことがある。騎馬武者行列には三船敏郎がゲスト出演していた。知人宅の二階から見ていたところ、騎馬武者の一人(たぶん一杯やっていたのだろう)が「無礼者。上から見るとは何事だ!」と怒鳴った・・・と、この話は野馬追の話題になるたびに母から聞かされる。


将門公ゆかりの地を訪ねて(17)〜島広山(茨城県板東市岩井)〜

島広山(しまひろやま)は石井(いわい)営所跡といわれ、将門公が居を構えて政治・経済・軍事の拠点とした地と伝えられている。

島広山といっても台地状にこんもりしている程度で、記念公園のような土地の三方は住宅に、後方が田畑に囲まれていて、正直、いささか拍子抜けした。

しかし考えてみれば千年以上昔の、しかも敗者の足跡が、たとえ言い伝えであるにせよこうして残っていることが奇跡的であり、将門公が地元でいかに愛され続けたかを計り知ることができる。

碑文に昭和53年と刻まれている。NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の放送は昭和51年だったから、その反響を受けて建立されたのだろう。あれから半世紀近く経ち、碑文もかなり読みづらくなってきている。吉川英治の「平の将門」あたりをもとにして、そろそろ大河に再登場させてはいかがだろう? NHK様!

 

将門公が最期を遂げたといわれる国王神社は、ここから直線距離で200〜300mの所。平貞盛・藤原秀郷軍4千に対して将門軍はたったの4百。本拠地を背に、必死の攻防が繰り広げられた様子が目に浮かぶ。


将門公ゆかりの地を訪ねて(16)〜石井の井戸(茨城県板東市岩井)〜

国王神社から南に数百メートル、台地の縁が田んぼに張り出したような所に「石井の井戸」という史跡公園がある。

現在、井戸自体はないがかつてはこのあたりから水がこんこんと湧き出していたのだろう。

昭和55年、当時の岩井市(現坂東市の中心)が設置した石造りの立派な案内板があるので、そのまま引用させていただく。

 

石井の井戸は、平将門公が、居館築造の地を探し求めて、島広の野を駆け巡るうちに、のどがかわいて困り果てていると、「水」と一声、東南の方に聞こえて、一人の老翁が立っていた。やがて傍らの大石をさし上げて、力一ぱい大地に打ち込むと妙味の水がこんこんとわき出した。不思議に思っているうちに、翁の姿はいずこかに消え去ったという。老翁を祀る一言明神と併せ、この石井の井戸は「岩井戸の宮」として、永く住民に尊びあがめられてきた。「いわい」をむかし「石井」と書いたのもこの井が中心を成したものといわれている。

 

 

近くには近くには「石井の井戸」伝説の老翁を祀った「一言神社」もある。ここからさほど遠くないお隣常総市に「一言主神社」という大きな神社があるが、そちらの祭神は一言主大神。一言神社とは関連がないようだが面白い偶然である。


将門公ゆかりの地を訪ねて(15)〜延命院将門山(茨城県板東市神田山)〜

国王神社から直線距離にして南南東へ約4.5kmの所に「神田山」という地名がある。「かどやま」と読むそうだ。

 

神田山交差点の南にある延命院。

天慶3年2月14日、平将門討死。将門公の首は京に送られ晒し首にされたが、胴体は密かにこの延命院境内に埋葬されたと伝えられている。

 

この地は相馬御厨(みくりや)の神領なので暴かれることなく今日に至っているそうだ。

 

将門公の胴体が埋葬されたというこんもりした塚はいくつかの呼び名がある。

「将門公胴塚」。

「将門山古墳」。

延命院の山号にもなっている「将門山」。

そして「神田山」。

 

この項の冒頭に紹介した「神田山」という地名の元になっているのがおそらくはこの「将門山」であり「将門公胴塚」なのだ。

 

実は神田山は「からだやま」であり、将門公の体(からだ)を葬ったことに由来するという説がある。「神田」の字を当てて真実を秘すためにあえて「かんだ」と読ませ、「ん」が脱落して「かだ」、さらに訛って現在の「かどやま」になったのかもしれない。否、「かもしれない」ではなく、そうであってほしい。「地名は歴史のタイムカプセル」とも「地名は歴史の案内人」ともいわれるが、地図大好き、歴史大好き人間はいわくありげな地名を見ると想像力を掻き立てられるのだ。

 

「南無阿弥陀仏」の碑は東京都の将門塚保存会から寄贈されたもの、「大威徳将門明王」の称号は延命院住職から贈られたものだそうである。

神田山の上には「決して侵すこと勿れ」と言うかの如くカヤの巨木が根を張っている。

 

不動堂。

不動堂を横から見ると社殿造りのようになっていて、正面の建物は拝殿で、弊殿を経て本殿に当たる部分が将門山(御神体)になっている。案内板がないので(たぶんあえて説明しないのだろう)断言はできないが、不動堂は将門公をお祀りするお堂であり、千年の長きにわたって将門公を愛してきた地元の人々の祈りの場に違いない。

訪れた2019年4月7日は折しも桜が満開だった。


将門公ゆかりの地を訪ねて(14)〜國王神社(茨城県板東市岩井)〜

今日、2月14日は平将門公の命日である。

 

茨城県坂東市岩井にある国王神社。

天慶3年(940)2月14日、将門公はこの地で討死したという。

 

 

天慶2年11月、常陸国府を焼き討ち。12月、下野国府、上野国府を攻略し、新皇と称して板東に新たな国の建設を宣言した。驚愕した朝廷は将門討伐の命を下し、全国の寺社に将門調伏を祈祷させた。その代表格が成田山新勝寺で、新勝寺の「勝」は将門への勝利を意味する生々しい名称だ。以前記したように千葉県我孫子市日秀地区では成田山を参拝しないが、ここ坂東市岩井でも間違いなく成田山詣ではしないだろう。

 

天慶3年2月、平貞盛、藤原秀郷は農繁期(田起こし)を前に兵を帰郷させていた将門の隙を突いて挙兵。貞盛・秀郷軍4000に対して400という劣勢で奮戦する中、突如風向きが変わり向かい風に将門の馬が立ち往生した瞬間、流れ矢が将門の右こめかみを撃った。2月14日未申の刻(午後3時頃)のことだった。NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で加藤剛演じる将門の最期は45年経った今も鮮明に蘇る。

 

天禄3年(972)、将門公の三女・如蔵尼が、父の33回忌に木座像を刻んでこの地に将門の霊を祀った。それが国王神社の始まりとされる。「国王」はもちろん祭神である平将門公。国王神社というのは奈良県十津川村にもあるが、祀られているのは南北朝時代の南朝・長慶天皇である。長慶天皇は賊徒に襲われ自害したと伝えられ、非業の死を遂げた点で両「国王」は相通ずるところがある。

 

拝殿入口に木座像の写真がある。罰当たりのような気がしたが撮影させて頂いた。

御神体の木座像は境内にある宝物蔵に収められている。

 

如蔵尼については奥州(福島県か)に落ち延びたと伝わっているが、千葉県柏市岩井にも伝説が残っている(当ブログ「将門公ゆかりの地を訪ねて〜龍光院地蔵堂〜」参照。右のcategoriesから「平将門」をクリックしてください)。

 

国王神社はこれで三回目で、2019年4月7日に訪れた。写真も記事も今日2020年2月14日のために温めておいたものです。これから先にUPする満開の桜はそういうわけですので悪しからず。そしてしばらくは将門公シリーズとなります。興味のない方はごめんなさい。


将門公ゆかりの地を訪ねて(13)〜大津川(千葉県柏市大井)〜

鎌ケ谷市くぬぎ山に端を発する大津川が手賀沼に注ぎ込む付近。対岸は我孫子市。

写真右端に見える木々が茂ったあたりが将門山や福満寺がある大井の台地だ。今は田畑になっている所(大井新田)も割と最近まで湖で、その昔は大津川の河口もずっと上流だったが、この美しい景色を見ていると将門公が「相馬の郡大井の津を以て京の大津と為(セ)む」と言ったのもわかるような気がする。


大津川というのは大井の津に注ぎ込む川という意味だろうか。もしかすると名付け親は将門公だったのかもしれない。

2005年に柏市と沼南町が合併するまで、この川が市と町の境界だった。高度成長期、流域の排水が流れ込み、ワースト1と言われた手賀沼の水質汚染の元凶の1つだった大津川も、今は水鳥が遊び釣り人が糸を垂れるのどかな川に戻ってきた。

 

将門公もほっとしていることだろう。


将門公ゆかりの地を訪ねて(12)〜福満寺(千葉県柏市大井)〜

天台宗教永山福満寺は、桓武天皇の時代(781〜806)の創建といわれる古刹である。

将門公の愛妾、車の前が将門公の敗死後ここに逃れて堂を建て、菩提を弔ったという伝説が残っている。福満寺の南に「車の前五輪塔」という大きな供養塔があるらしいが、残念ながら見つけられなかった。

 

本堂の横に将門大明神が祀られている。

「相馬の都」というのは「王城を下総国の亭南に建つべし。兼て檥橋(ウキハシ)を以て号して京の山崎と為、相馬の郡大井の津を以て京の大津と為(セ)む」という「将門記」の記述に基づくものだろう。

 

先に述べたように「王城の地」としては残念ながら疑問符が付くが、「京の大津」に擬えられたのはここ手賀沼湖畔の大井と考えてよいだろう。

 

山門を兼ねたこの立派な鐘楼は、「近江八景」に倣って選定された「手賀八景」のうち、「三井の晩鐘」の写し「大井の晩鐘」と呼ばれる。

手賀八景の選定は江戸時代以降のことだが、この地を琵琶湖畔に見立てたのは将門公なのだ。

 

寺の入口の看板に書かれている「大井の七人影武者伝説の地」というのは、将門公が操ったという7人の影武者にまつわるもの。その影武者ゆかりの地がここ大井で、坂巻、石原、石戸、吉野、富瀬、久寺家、座間の七家がそれという。真偽はともあれ興味深い伝説だ。


将門公ゆかりの地を訪ねて(11)〜将門塚(千葉県柏市大井)〜

前に「きっかけ」の項で触れた郷土史本「下総国札」(岡田秀樹著)に気になる記述があった。

 

「(福満寺から)将門山への途中に、将門を祠ってあるという小さな森がある。この森に入ると必ず将門のたたりがあって、手足がしびれて動かなくなるという。禁足地だったらしい。中をのぞくと祠が二つ並んでいる。(福満寺の)住職が止めるのも聞かず入ってみた。祠の主は時代不明の板碑だった。いつの間にか、出土した板碑を将門の供養碑と考えて大切にしてきたのだろう。無断で森に入った罰があるかと思ったが、幸い手も足もその後無事に動いている。」

 

「王城の地」の中程にこんもりとした森がある。

上記の本が出版されたのは1983年で当時の状況はわからないが、今は周りは畑と空き地で森に通じる道は見当たらない。

公道なのか私道なのか、砂利道が一本あって森に少しだけ近づくことができた。

目をこらすと祠らしきものが見える。それも二つ。これこそかの禁足地の森、「将門塚」に違いない。先の本の著者はさすがは郷土史家だけあって大胆にも中に入ったが、たとえ森に通じる道があったとしても私には足を踏み入れる勇気はなかっただろう。霊気漂う森である。

心の中で遠目にも覗き込んだ非礼を詫びて王城の地を後にした。



calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< July 2020 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

  • 豆腐と卵とサーモン和えのなめこあんかけ
    よちゃこ
  • 豆腐と卵とサーモン和えのなめこあんかけ
    やなぎ
  • 豆腐と卵とサーモン和えのなめこあんかけ
    よちゃこ
  • 豆腐と卵とサーモン和えのなめこあんかけ
    よちゃこ
  • 豆腐と卵とサーモン和えのなめこあんかけ
    やなぎ
  • 豆腐と卵とサーモン和えのなめこあんかけ
    よちゃこ
  • 将門麦酒
    やなぎ
  • 将門麦酒
    よちゃこ
  • 将門麦酒
    やなぎ
  • 将門麦酒
    よちゃこ

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM